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千葉滋賀県人会創設後二十年を振り返って

 

馬場 弘二(千葉滋賀県人会 副会長


 第十一回滋賀県人会世界大会を前に全都道府県に滋賀県人会を作ることになり、当時東京滋賀県人会に所属していた小野現名誉会長が千葉県を担当、私や新木元事務局長は県人会とは関係なかったのですが小野さんから友人として手伝ってほしいと要望され設立に協力することになりました。東京滋賀県人会会員で千葉在住の方を中心に新たに高校同窓会名簿などで加入勧奨をし、発足までに六十名の会員が集まりました。

 平成十八(二〇〇六)年四月十八日千葉滋賀県人会設立総会を当時の三井ガーデンホテル千葉で、総勢四十二名の参加を得て開催、五月十九日の全滋連総会で全滋連加入の承認、会旗の授与があり千葉滋賀県人会が発足しました。設立時の会員の大半は六十歳定年退職者でこれから第二の人生を始めようという人たちでした。総会参加者は元気に満ち溢れ、盛大な総会となり私は県人会への思いを新たにしました。

参加者も多かった平成二十年頃の新年会風景

「郷里滋賀・琵琶湖を懐かしみ、愛する人たちの会」として以後順調に発展し会員数は百三十名を突破、大きなイベントとしての総会、新年会は盛大で一時は六十名を超える参加者がありました。また春・秋の見学会、特に第一回目は会員だった成田国際空港の森中社長にお願いしての空港見学は強く印象に残っています。以後見学会は県人会活動の大きなイベントになりました。さらにゴルフ同好会もでき、また対外県人会等との交流として「淡海の人大交流会」「近江ゆかりの会」への参加と県人会活動は発展を続けてきました。

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第一回見学会の成田空港は強く印象に残っている

 この間体調不良から会長が小野さんから中村現名誉会長にバトンタッチされました。ところが令和二年一月から始まったコロナ大流行により令和二年度、三年度の活動と四年度の対面総会は中止となりました。やっと令和四年九月十九日に会員の皆様相互の絆を再認識するべく秋季懇親会を開催し県人会活動を再開いたしました。  しかしコロナ流行時の活動停止は千葉滋賀県人会にも大きな打撃となりました。会員の高齢化が進む一方活動停止期間中新規会員加入が進まず会員数は減少、諸物価の値上がりによる経費のやり繰りなど大変でしたが会員の皆様の協力で乗り切りました。また中村さんが車いす生活となり竹本現会長が選任されました。県人会活動も回復してきました。千葉滋賀県人は他の県人会と比べて女性会員が少ないようです。今後女性会員を増やすことで一層の飛躍を期待いたします。

(令和8年5月)


故郷はすぐそこにある

 

脇阪 守(長浜市木ノ本町出身


 このたび五十年以上お付き合いいただいている植野克美様にお誘いいただき、千葉滋賀県人会に入会させて戴きました。 令和七年七月十三日開催の「総会」に初めて参加させて戴き、そこに参集された皆様とお会いすることを通じ、改めて「ふるさと滋賀」を強く思い起こすことができました。
 私は昭和四十八年四月に滋賀湖北地方を離れ、およそ五十年、東京・埼玉・米国・千葉・群馬・神奈川などを拠点に走り回って参りました。 その間いつも故郷滋賀と心のどこかで繋がっていたように思います。 故郷から遠く離れた国や地域からは、故郷との往来や通信が容易でなかったことから「故郷は遠くにありて思うもの」とも感じておりました。

今は何処にいても瞬時に故郷と繋がれる時代

 しかしながら令和の現在は通信・交通手段の飛躍的発達により、世界中何処にいても故郷と瞬時に繋がれる便利な時代となりました。 私たちは気軽に故郷滋賀に行き来できますし、故郷にいるひとたちは、いつでも滋賀ゆかりのネットワークにアクセスできます。  「東京一極集中」とか、「過疎と高齢化で地方消滅」とか言われますが、これからの時代は国も自治体も企業もそして個人も、人々が「二拠点」を適宜使い分けて、仕事と生活の両面において最高の組み合わせを可能にする「工夫と協力」が求められる時代になったと考えます。 そしてそのことが地方活性化の決め手となるように思います。
 今後は千葉滋賀県人会の皆様と親しくさせて戴いて、故郷滋賀の人々と滋賀を愛する世界中の滋賀県ゆかりの方々との「素晴らしい絆」の発展に関わって行ければ幸いです。どうぞよろしくお願い致します。

(令和7年8月)



電化製品普及前の昭和田舎生活

 

川分 陽二(彦根市出身

 

 犬上郡河瀬村大字堀、今では彦根市堀町になっているが、私が生まれた昭和28年にはそう呼ばれていたらしい。犬上川が琵琶湖に注ぎ入る4kmほど上流で、鈴鹿山脈からの緩やかな扇状地の裾で、綺麗な水が沸いている場所が近くにあった。

 保育園の頃、家には冷蔵庫も洗濯機も炊飯器も無かった。
 家の水屋に外から川の水が引き込まれており、そこで野菜や食器を洗ったりしていた。夏には、深さ5mほどの井戸にスイカが吊るされて冷やされていた。
祖母は村の中央を流れる川幅2mほどの小川に行って、近所のおばさんたちと洗濯板と硬い石鹸の塊で洗濯をしていた。

スイカの冷やし方も土間の竈門も昭和30年頃の滋賀では見慣れた風景

  竈門が土間にあって、薪を燃料に毎日ご飯を炊いていた。風呂は五右衛門風呂でもちろん燃料は薪だった。暮れには餅米を炊いて餅つきをして鏡餅をみんなで作っていた。

 家の垣根にはお茶の木が植っていて、祖母が茶の葉っぱを摘んでは蒸したりしてお茶の葉にしていた。また垣根の椿も赤い花がいずれ実をつけて椿油として仏壇や床を磨いたりするのに使っていた。
 昭和30年ごろはまさに自給自足の生活で、おそらくは江戸時代とそう変わらない生活だったのではないだろうか。田圃と畑があれば魚や肉を買う以外は自給できた。
 
祖父は自転車に乗れなかったので10kmぐらいは歩いて出掛けていた。

 今は誰も住まなくなった実家に帰ると、そんな記憶の彼方の想い出が浮かび上がってくるのは私だけだろうか?

(令和7年3月)


 

 

私はカメ

 

大橋 和男(豊郷町出身)

豊郷小学校旧校舎(円内)と校内階段 ( photo : photolibrary )

 先輩方々の「ふるさとを想う」をいくつか読ませていただき、「田んぼ一面のレンゲにヒバリのさえずり」、「川遊びや缶蹴り」、「春秋の祭り、地蔵盆」等々、昔の情景が一気に蘇リました。
 私は高校までを豊郷村で暮らしました。父は戦前、東京で卓球用品の製造販売をやっていましたが、空襲で実家の豊郷村に避難、農業で暮らしていました。現金収入がないので、やがて父一人が東京に戻り卓球場を再開、農繁期に帰ってくるという生活。帰ってくるときの一斗缶の菓子が本当に待ち遠しかったです。
 兄弟も中学校、高校を出ると、長兄を除き順繰りに東京に出ていきましたので、母、役場勤めの長兄がコメづくリの主役で、戸締り、鶏の世話、風呂焚き、農繁期の昼ご飯づくりが私の役目。
 農繁期は、田植え、水遣リ、草取り、稲刈り、ハサ(稲架)掛け、足漕ぎの脱穀、莚での天日干し等、一通リは手伝いました。夕方では終わらず、月夜の下でハサ掛けが終わったと思ったとたんハサが倒れ、またやり直した場面をよく覚えています。何も考えず、黙々と作業するのは苦になりません。私の辛抱強さは、小中学時代の百姓仕事で培われたように思います。
 さて、卒業した豊郷小学校の階段手摺には、イソップ蛮話を模した「ウサギとカメ」の置物が置かれています。ウサギは昼寝してカメに追い越されますが、世の中には昼寝をしてくれないウサギもいて、道を見つけられず右往左往している私を早々に追い越していきます。
 でも私はウサギにはなれません。回り道でその時は不要な多くのものを拾い、いつか幅広い知識や大きい心情のすそ野をもってウサギに並びたい、私はカメで す。

(令和7年2月)




 

故郷二題

 

小古田 英治(日野町出身) 


遠く故郷を思う

稲田から望む竜王山と綿向山

琵琶湖から 遠く離れた
山あいの 故郷よ
夢は枯野か 空蝉か
稲架掛けに しなるは稲穂
峰は重なり 薄く濃く
吹く風さやかに ゆらす花


折に触れ 姉の電話は
懐かしく 聞く訛り
曾孫交えた 大家族
気がつけば 兄弟姉妹
何時の間にやら この俺も
頑固な親父と 同じ年


長生きの 相と名指した
先生が やけに気に
さくら咲く 川伝い
石蹴りし 通った友よ
今も元気で いるだろか
地酒が沁みるよ 「花の友」


湖東三山
(西明寺・金剛輪寺・百濟寺)
紅葉も見事な秋の百濟寺

湖に続く 遠き野に
信仰篤き 人びとの
浄き心の よりどころ
「おかげさんでなあし」
霞たなびく 朝霧に
湖東三山 静かにおわす


万葉浪漫 夢そぞろ
大宮人の 歌碑うれし
慣れぬ参道 杖借れば
「ようおまいりやす」
訛りなつかし 近江路は
湖東三山 血染めの紅葉


訪ねて久し 故郷は
床しきまでの 風の色
座像優しく 目を細め
「またもんといでや」
黙す立像 見やる先
湖東三山 茜に暮れる


     (令和6年11月)

 



 

滋賀県スペシャルデー 西武球場観戦記

 

竹本 豊子(長浜市出身)

 

ベルーナドーム(西武球場)

 西武球場へ初めて行って来ました。私の故郷・滋賀の近江鉄道が上下分離方式(※)に移行しましたが、そのスタートを契機に滋賀県と近江鉄道が西武グループとの関係を強化しようと<滋賀県スペシャルデー>なるコラボ企画が立てられました。それが4月13日に行なわれた西武球場での埼玉西武ライオンズと福岡ソフトバンクホークスの公式戦観戦です。滋賀県人会割引もあり、私はこの機会を逃す手はないと考え参加したのです。

※沿線自治体でつくる「近江鉄道線管理機構」が線路や駅舎などを維持管理し、近江鉄道が列車の運行を行う運営方式

 完売御礼が出て球場は満杯。三日月滋賀県知事の始球式もボールはキャッチャーミットに見事に納まりました。球場からはライオンズマーク付きのダンボールニットジャケットを、近江鉄道からはライオンズのミニフラッグが配布され、応援体制は万全。三日月知事と滋賀県東京本部長の中村守氏が県人会席に顔を出したり、整然とした応援合戦に感動したりしました。
 試合は、11対2でソフトバンクの圧勝でしたが、ソフトバンクの山川が満塁ホームランを2本、最後の9回裏に西武のアギラーが一矢を報いた2ランホームランを見ることができ、楽しい観戦でした。
 次の日14日は私の故郷では、長浜曳山祭の夕渡りで、ここ数年知事が提灯を持って行列の先頭に立って参加してもらっています。知事さんも忙しいですね ! 

(令和6年4月)



 

 

日野商人サミット

 

新納 瑞穂(日野町出身)

 

日野商人サミット(日野町広報)

 令和5年11月 埼玉県大宮市で第2回「近江日野商人サミットin北関東」の題で堀江日野町長による町の政策プロジェクトの紹介と満田良順日野商人館長の講演を聞く機会があり、千葉滋賀県人会からも日野出身の6人が参加しました。
 蒲生氏の城下町として栄えた日野は蒲生氏郷の伊勢松坂・会津若松への転封により衰退したが、「日野椀」・「日野合薬」の行商に活路を見出しました。そして日野商人は徳川幕府の庇護を受け、「日野大当番仲間」という組合を組織し個々の商人の活動を支え合い、「陰徳善事」の精神を忘れることなく、主として中仙道を経由して江戸日本橋までの各地に根付き、信用を得て「千両店」と呼ばれる醸造業を中心とした小さな店を数多く展開し,江戸時代以降全国で900軒を超えました。その約半数は、群馬・埼玉・栃木・茨城など北関東への出店だったとのことです。
 現在でも多くの近江日野商人の末裔が北関東で活躍しています。埼玉県では秩父の矢尾本店(「秩父錦」などの酒造業)・矢尾百貨店などが有名です。
 一方、千葉県への出店は江戸時代13軒 、明治時代4軒と少なく、水戸街道沿いの松戸・小金・我孫子に小規模宿場があったものの、出店に魅力的な環境ではなかったと推察されます。
 尚、この講演会の合間に滋賀県出身の落語家「三遊亭わん丈」氏(今年3月に15人抜きで真打に昇進)の古典落語「日野椀」を楽しみました。
 このサミットに触発され、12月3日には日本3大曳山祭の秩父神社の例大祭(秩父夜祭)の見物がてら秩父駅から車で10分の矢尾本店「酒造りの森」に寄りました。

秩父神社例大祭曳山(左)と 秩父・矢尾本店「酒造りの森」

 水質の良い自然豊かな森に囲まれた佇まいの醸造工場(地酒「秩父錦」)、酒蔵資料館(270年の酒造りの歴史)、物産館が併設されています。酒造りの工程は現在機械化が進んでいますが、作業で一番の力仕事は酒を取り出した後の円球状の大タンクの中を清掃することだとの説明を受けました。その作業中も同じ部屋の中に他の醸造中のタンクがあり、部屋の温度を11℃に保たなくてはいけないので、作業員の体温で室温が上がるのを防ぐため冷房をつけて品質の保持に努めているとのことでした。

(令和6年4月)

 

 


 

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