的場 昭光(米原市出身)
千葉滋賀県人会の皆さま、こんにちは。私は米原市(旧伊吹町春照)出身で、東京在住の的場昭光と申します。
本日は、2023年4月から9月まで放映されたNHKの朝ドラ『らんまん』の主人公のモデルの牧野富太郎博士ゆかりの『南天の木』について紹介させていただきます。
これは伊吹山麓の旧家にあった『南天の木』が、縁あって、千葉県からも近い、柴又 帝釈天 題経寺の『床柱』となったとの断片的な情報を私が調査し、まだ、不明点もありますが、経緯としてまとめたものです。
牧野博士は、明治、大正、昭和に薬草採集、植物講習会などで、伊吹山に計8回訪れています。明治39年8月に講習会に招かれた時は、私が生まれ育った旧伊吹町春照(当時は春照村)の旧家的場徹氏邸(同姓ですが、親戚ではありません)に宿泊されました。その際に、庭にあった、軒先の高さを超える南天の木を見て、『日本一の大南天』と大変驚きましたが、その後、家屋修繕時に倒れて、残念ながら枯木となってしまいました。
大正6年ごろ、その枯木は、売却目的で、東京報知新聞社に持ち込まれました。それを聞いた牧野博士は、その新聞社で枯木となった南天の木と一緒掲に写真を撮り、『牧野植物学全集 植物分類研究下巻』の口絵として掲載しています。
南天の枯木と牧野博士 | 帝釈天 題経寺の床柱 |
しかし、その後、その枯木は行方不明となり、牧野博士は行き先を知らないまま昭和32年に亡くなっています。
この経緯については、のちに、牧野博士の随筆集『植物一日一題』の『日本で最大の南天材』の章に記述されています。
その後、昭和4年の題経寺の大客殿落成に合わせて『経頂の間』に床柱として鎮座することになりました。さらに昭和37年にはこの南天の床柱をモチーフにした6円切手が発行され、その贈呈式に招待された牧野博士の教え子で、元日本植物学会長で東京大学の小倉名誉教授により、『南天の枯木』と『南天の床柱』が同一であることが確認され、専門誌『植物研究雑誌』にも寄稿されました。
何故、伊吹山麓にあった南天の木が柴又まで運ばれてきたかは、未だ解明できていませんが、題経寺の住職の奥方は滋賀県のお寺出身であったとの大変貴重な情報お寄せいただきました。南天の木があった旧家の奥方は教師をされており、彦根あたりの女学校で接点があった可能性もあり、更に調査を進めておりますが、その確証は得られていません。
最後に、この南天の床柱は、大変すばらしい帝釈堂の壁面彫刻と併せて現在も観覧(有料)できます。ご興味のある方は是非とも実際にご覧ください。
私が作成しました物語の動画のQRコード(右)も掲載しましたので、併せてご覧いただけると有難く存じます。ご一読いただき有難うございました。
こちらからもリンクできます |
https://www.youtube.com/watch?v=rS8paqS2CX0 |
※本稿は遠藤顧問が、総会の懇親会で紹介した内容につき、
的場氏に執筆を依頼し、快諾いただいたものです。
(令和5年11月)
飯田 博(高島市今津出身)
私は現高島市今津町で生まれ育ち、大津市堅田で20年ほど生活をしていました。その間、会社勤めをした後に建設業で起業独立し、10年ほど前に千葉に事業を移転し現在に至っております。
滋賀で生活していたころには我がふるさとの良さにはまったく気付きませんでしたが、いざ千葉に住んでふるさとから離れてみると子供の頃の懐かしい思い出がよみがえってきます。
春の桜の咲くころには海津大崎の桜を見に見える竹生島が絶景です。夏は家の裏の琵琶湖で水遊びをしたり魚自転車で行きました。今も手付かずで自然が 残ったままで、そこから取りや魚釣りをしたり、秋になると収穫の終わった田んぼで草野球をしたり、冬には箱館山でのスキー三昧で四季それぞれの遊びをしていたころを懐かしく思い出します。
また、高島市は近江聖人と呼ばれた中江藤樹が私塾として藤樹書院を営んでいたところ でもあり塾生には儒学や医学を教えていたとのことです。若いころ淡海の先輩達からよく中江藤樹が残した名言や教えを聞かされていましたが 当時の私にはまだ理解出来ていなかったと思います。
そのなかのひとつを紹介します。「それ学問は心の汚れを清め、身の行ないを良くするを以て本実とす」「にせの学問は、博学のほまれを専らとし、まされる人をねたみ、おのれが名を高くせんとのみ、高満の心をまこととし、孝行にも忠節にも心がけず、只ひたすら記誦詞章の芸ばかりつとむる故に、おほくするほど心だて行儀あしくなれり」とあります。
私も今ではこの言葉の意味が分かるようになりました。若いうちに分かってもっと勉強したらと、今更ながら思っています。
ふるさとは離れてみてから、その良さが分かるのですね。 時折千葉から滋賀へ帰る際に琵琶湖大橋や白髭神社の鳥居越しに見る琵琶湖にほっとしている自分に気付きます。毎日目にしていた時には当たり前の景色も、改めて見ると何と贅沢なものかと。そして、鯖寿司や丁稚羊羹が食べたくなる。
私にはないと思っていた郷土愛が確かにそこにはあったのだ。
(令和5年3月)
中嶌 尚信(山東町出身)
渡辺康代様に感謝申し上げます。家内が通うスポーツジムでバッグの「ひこにゃん」ホルダーを渡辺様のご友人が発見、入会のお誘いを受けた次第。
私は山東町立大原小学校卒で、姉川と伊吹山に囲まれた自然豊かな大原野(おおはらの)が故郷。ここは承久の乱(後鳥羽上皇が北条義時を討とうとした戦さ)の先陣争いで「近江国住人佐々木四郎左衛門尉源信綱、本日の宇治川合戦の先陣であるぞ」と名乗った信綱の嫡男重綱に与えられた地である。
以後、佐々木重綱は大原重綱と名乗り大原中村城主に。家紋は平四ツ目結で佐々木家と同じ。信長により大原氏は断絶、江戸末期は京極丸亀藩の飛び地となり明治維新を迎えた。ここは天領で旗本が管轄していたと亡父から聞いている。城跡は今や竹藪、近くの神社に家紋の石柱が残存し往時が偲ばれる。小学生の頃、観音寺本堂を写生、風情のある造りの記憶がある。三島池、源氏山、そして源氏ボタルも故郷の記憶。
昭和50年5月、中学生の時、苗圃(びょうほ)の林が突然公園に変身しお手播き会場に。昭和天皇・皇后両陛下が来町、ヒノキ、モミジをお手植えされた。これを祝し、流星が打ち上げられ、天空から落下傘や流星が舞い降りた。あろうことか流星を掴んでしまい、左目の上を火傷。その傷は今でも流星(実家に保存)と共に残っている。
高校1年春、学年で安土城址に遠足、2年は賤ケ岳、絶景を満喫した。琵琶湖の名産は、小鮎、いさざ。土用丑の日には長浜の魚三から頂く鰻。母自慢の鰻丼が、当時年一度のご馳走だった。淡い桃色の日野菜漬けも母特製、鮒寿しは言わずもがな。古い鮒寿しでのお湯漬けは絶品。今後、江州に恩返しをしたいと思うこの頃である。
(令和4年10月)
村田 和雄(近江八幡市出身)
私は昭和16年2月に近江八幡市浄土寺町にうまれました。生家は、市の南端に位置し、低い山並みと日野川の堤防に挟まれた純農地帯で今も家並みは殆ど変わりません。
昭和28年9月25日この静かな集落で大災害が起きました。その日の深夜11時、近畿地方を襲った大型台風13号により日野川が急増水、川が蛇行する非常に危険な箇所が100メートル以上にわたり決壊しました。家屋は全壊、半壊、浸水等ほぼ全戸におよび大打撃を受けましたが幸いにも住民に犠牲者はありませんでした。過去の体験で避難慣れしている住民は家畜も含め早めに退避する習慣がついていたのです。
ところが思いがけない大惨事が発生したのです。その当時、秋の収穫期前に他府県から巡業してくる旅芸人の一座(錦劇団)がありました芸達者で大変評判がよく近隣の集落からも大勢観劇にきて毎年大人り満員でした。
その年も3日間の興行は大盛況のうちに終わり次の興行地に移動するところ熱列なファンから日延興行の大コールが起こり劇団もそれに応えて屋外の仮設小屋で一日日延べする事となりました。
座員が起居する芝居小屋は決壊場所から400メートル位はありましたが高い堤防の土砂、濁流の直撃をうけ芝居小屋もろとも座員全員が濁流にのまれました。下流で地元民が濁流に飛び込み救助するところを見ましたが、深夜の中の大捜索となり翌日痛ましい水死者が6名発見されました。激流の中奇跡的に救出されたひとは10数名でした。
家畜一頭死ぬこともなかったのに、なぜ旅の人が犠牲にという気持は地元民の心の奧深く今も消え去りません。合掌
(令和4年10月)
水口 奈々子(甲賀市信楽出身)
30年ほど前に、結婚し故郷を離れる私に母が言った言葉です。
すでに世はグローバル化も進み、海外旅行も日常的になっていましたが頭ではわかっていても、つい出てしまったのでしょう。 信楽で生まれ育ち嫁いだ母にとって関東は地の果て… 。
私でそうですから、先輩方の家族の想いはそれ以上だったと推察されます。滋賀県人会にご縁を頂き、親と同年の方々のお話を伺い故郷を想う心に県人会の意義の一端を教えて頂きました。
出身校は水口東高校、2期生でしたので校名を聞いたことがない方もおられると思います。地名水口読みを脱却し苗字水口 に慣れるまで10数年かかりました。60歳ちかくになり同窓会も定期的に開かれるようになりましたが、このコロナ禍で途絶えています。
けれども、コロナが落ち着いたなら懐かしい人に場所に会いに行きます。信楽中学校の同級生、人生の節目で(一社)お茶芽Dream朝宮を設立。またある友人は無農薬農家に転身し米やお茶を実直に作っています。外資系コンサルタント会社を辞め陶芸教室を横浜でやっている者等々、信楽の風土や伝統に魅入られ、それらに関わり生きています。
そして私の姉は子育てを終え、陶人形からイタリアフィレンツェの職人市にブルーミケランジェロアクセサリーを出展するまでになり、「陶房準」を信楽に構えています。 友人や姉が「ここ滋賀」や銀座・新宿へ展示やイベントの為来る時には陣中見舞いをかねお手伝いに行きます。
信楽へ帰省の時はなるべく信楽高原鉄道に乗り、山を登る緑のトンネル・風の香り・見えてくる懐かしい街並みを楽しみます。変わったものも沢山ありますが、変わらずそこにあり続けているものもあり、それら全てが故郷。
首都圏滋賀区民としてお国自慢から始める広報・営業として、"地の果て"から発信していければ幸いです。 故郷のみんなが頑張っているから、私も何か一助になりたいと思っています。
(令和3年4月)
馬場 弘二(彦根市出身)
最近の朝日新聞夕刊のトップにー「御城印」人気御朱印に続けーと題し三つの御城印が紹介されていたが、その一つ佐和山城が私の故郷鳥居本にある。
鳥居本は中山道の宿場町として、また佐和山城の城下町として栄えたようだが城が移り、鉄道の普及とともに寂しい田舎町となってしまった。町内には法界坊の釣鐘、三成時代の遺跡等々があり、また子供の頃は街道沿いに連子格子の古い家が多く八月には格子を外して三成の遺徳を偲んだと言われるお地蔵様を安置しての地蔵盆の行事があったが昔物語になったようだ。
すっかり寂れたと思っていたわが故郷は十三年前から十月の第一日曜日に宿場祭りと称して大イベントを開催し町おこしを図っていた。昨年訪れた折には近在の人々も含めて大勢の人達が集い、在りし日の宿場を再現していたが、人と人との強固な繋がりを感じた。「御城印」が町おこしの新たな力になってくれたらと思った次第である。
(令和2年11月)
溝上 一生(東近江市出身)
ガチャコンの愛称で親しまれている「近江鉄道(株)」は湖東、東近江、甲賀地域の発展を目的に設立されて120年以上が経ちます。1967年度は1,126万人が利用、しかし現在は475万人、年間5億円の赤字経営とか。
このようななか今年3月「近江鉄道沿線地域公共交通再生協議会」において「日々の暮らしや県全体の発展にとって欠くことのできない交通インフラである」として全線存続が確認されました。
今ガチャンコを守っていくために県や各市町がどのように責任を果たしていくかが問われています 。 (記事・写真「広報ひがしおうみ」9月号参照)
八日市駅にて「今も改札は目視です」(令和2年11月)
青木 弘 (我孫子市)
私は、正確には滋賀県人ではありません。でも私にとっては、滋賀県がふるさとです。
両親とも愛知川町市(現 愛知郡愛荘町市)の出身で、父は幼少期、呉服屋が倒産、大阪で学んだあと満州で知りあった広島の銀行家の方との出会いがあり、広島市に住むことになりました。
終戦の年の八月、広島で原爆被爆後、母親の実家に翌年までお世話になりました。愛知川小学校に三年生の二学期まで通わせて頂きました。運動会、稲刈り、灌漑池で泳いだことなど、生涯忘れえない思い出となりました。その後社会人になり、勤務地が東京になってからも、愛知川小学校時代の友達とは、度々旧交を温めました。
帰郷した時の楽しみの一つは、湖東三山、石塔寺など飛鳥時代以来歴史の舞台となった史跡をめぐることです。特に聖徳太子が創建した百済寺は大好きで、太子が近江に残した足跡に思いを馳せながら、滋賀県人の誇りと幸せを感じます。
馬齢を重ねて約80年になりますが、この間、私にとって滋賀県はふるさとであり続けました。
数年前、上野さんのご縁で千葉滋賀県人会に入会させて頂きました。滋賀県のご縁が続いていることに感謝の気持ちで一杯です。
皆様には、今後ともご厚誼のほどよろしくお願いいたします。
(令和2年7月)
小堀 健次(彦根市出身)
馬齢を重ね今年は「人生古来稀なり」という年齢に達しました。還暦、卒後50年、そして先日の古希と母校彦根東の大規模な同窓会が開催されたのに加え、ここ数年は甲子園応援ツアーが加わり集いが頻繁になりました。私自身も野球部に属し、当時は秋の近畿大会でベスト4に進んだものの春の選抜は補欠校に甘んじた悔しい経験があるだけに、甲子園アルプス席での応援観戦という非日常を与えてくれた後輩たちに「アッパレ!」です。ただ、京大志望と聞いていた昨年のエース増居君が慶應に行ってしまったのはちょっと残念。
余談ですが、私は一浪して運の悪いことに東大入試が無かった1969年に(恐らく採点ミスで)京大に入ったのですが、学園封鎖で授業がなく誘われるままに野球部に入り、その後の4年間が野球漬けとなり京大野球部卒みたいなことになってしまいました。
思えば彦根に住んだのは学生時代までで、社会人以降は東京及びニューヨーク駐在を経て現在の柏に住まってからすでに32年を超えたにも拘わらず、理屈抜きに吉本新喜劇が大好きで、東西対決の試合は何故か関西勢に味方してしまう自分がいます。こういう想いが共有できるのが同窓会、県人会の集まりなのかもしれませんね。
これといった趣味もありませんので、現在は年50ラウンド程度のゴルフと気の置けない仲間との飲み会を楽しみに過ごしています。お酒が入ると、自分の手柄でも何でもないのに、やれ今度の朝ドラは信楽が舞台だとか、やれ来年の大河ドラマは滋賀にゆかりの深い明智光秀が主人公だとか、こちらの飲み仲間に近江を吹聴している自分に苦笑を禁じえませんが、いつまでも元気で郷土自慢を続けたいものです。
(令和元年10月)
新田 崇信(長浜市出身)
地元に居るときには気づきませんでしたが、滋賀を離れて生活することで、滋賀の魅力を強く感じています。
調べてみますと、滋賀県は隠れた文化財の宝庫。「国宝・重要文化財」保有ランキング、寺院の数ともに全国第4位で、歴史的価値の高い素晴らしいものがたくさんある地域です。
そんな中で私が一番心動かされるのは、先人が観音様・阿弥陀様といった仏様を守り続け、しっかりと次の世代へ受け継いでいく文化があること。そして、「仏様を大切にする心」が今も日常の生活の中にあることです。
このような生活の中に溶け込んだ精神文化の歴史に、大きな重みを感じるようになりました。こういったことも、地元を離れてから見え、感じるようになってきたことです。
滋賀県で生まれ育った事に、改めて嬉しさと誇りを感じています。
今、千葉県松戸市の都営八柱霊園の前に、そんな『滋賀の仏様』をお迎えし、 お寺「法要館」をスタートしました。滋賀の先人たちの教えを大切にした空間にしたいと思っています。
「今」、そして「次の世代」へと「滋賀の心を首都圏に!」と活動していきたいと思っています。
大慈山 佛心寺 副住職
(令和元年5月)
森 貞克(近江八幡市出身)
故郷近江八幡を離れ48年近くになります。旅行が好きで、未知の世界への憧れもあり、全国に拠点を持つ会社に就職しました。8年間札幌など地方で過ごし、40年は本社勤務のため故郷の滋賀とは疎遠になってしまいました。両親が亡くなってからは年1回程度帰省する程度です。それでも実家が近いサッカーの乾君、短距離の桐生君の活躍や母校の甲子園出場には滋賀県人の血が騒ぎます。
高校時代の同級生数十人とは、ほぼ毎年のように北海道や東北への旅行、天橋立カニツアーなどで昔の思い出に浸っています。関東の同級生とは忘年会、新年会などで毎年集まっており、昨年は関西の同級生と合同で1泊の尾瀬散策を行いました。今年も6月に北八ヶ岳を歩く計画を立てています。
5月上旬に伊豆諸島の三原山と八丈富士に登ってきました。そこで思わぬ出逢いがありました。ホテルでの夕食でフォンデュの材料に赤く四角いものがありました。不思議に思いウエイトレスに尋ねると「八幡(やはた)コンニャクです」との答えが返ってきました。思わずこれは「八幡(はちまん)コンニャクです」と答えてしまいました。
山登りとの出逢いは、14年前に女房から誘われ、なんとなく始めましたが不思議な魅力に取り憑かれ今も月2〜3回登っています。古希を迎える今年は槍ヶ岳を目指しています。
夫婦で海外のトレッキングにも行ってきました。(写真;左からニュージーランド、ネパール、スイスです)男性長寿日本一の滋賀県人として、少しでも長く元気な老後を過ごせればと思っています。夢はロードバイクによる「ビワイチ」です。
(令和元年5月)