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気持ちをやさしく包んでくれる故郷

 

布川 高男(東近江市出身)

 

 東近江市瓜生津町。私が生まれて高校卒業まで育ったところです。目立った名所や名物もないため、滋賀県でも市外の人には説明してもなかなかわかってもらえないことがよくあります。
  事実、南北に延びるなだらかな低い山が近くに臨める以外、田圃しかないまさに田舎中の田舎でした。その代わり、初夏には青々とした苗が風にそよぎ、秋には黄金色の稲穂が絨毯のように広がる光景はなかなかのものでした。今の人たちの言葉では「インスタ映えする景色」とでも言うのでしょうか。
 地元に何もないとはいえ、さすが寺院数日本一を誇る滋賀県。ほんの少し足を延すだけで名のある寺院がいくつもありました。永源寺や石塔寺、太郎坊宮、百済寺などはよく訪れたところです。とくに、太郎坊宮は兄と弟が結婚式を挙げたところでもありとても親しみを感じています。高校生の頃はバイクで、寺院だけでなく、彦根城や松原水泳場、近江八幡の休暇村、竜王スケートリンク(今はないかな)などにもよく遊びに出かけました。バイクを走らせつつ眺めたキラキラと輝く湖面、緑深い松並木、はるかな湖西の山並みなど、滋賀を思う時いつもそんな美しい景色ばかりが浮かんできます。
  学生生活を含め東京で15年、その後千葉に移って35年になります。今はもう生まれ育った家は道路拡張の影響でなくなってしまいましたが、数年前そこに立ち寄った時、当時とそう変わらない風景と、穏やかにゆっくりと流れている時間や空気に、気持ちがとても柔らかくなったことを覚えています。
 ところで、我が家は妻も子供2人も千葉生まれ千葉育ち。そんな中で滋賀の私はずっとアウェイ感を味わってきました(笑)。ところが昨年娘が滋賀県出身の男性と結婚。以来何か強い味方を得たような感じを抱いている私です。

(平成30年11月)

 


 

 

我は湖の子、さすらいの・・・

 

野村 寿(大津市出身)

 

 大学を卒業した昭和48年春に就職のため上京しました。就職まで実家を離れたこともなく、近い親族に地元滋賀を遠く離れた者もおらず、家族には随分心配されたものでした。
  学生時代はちょうど大学紛争真っ只中の時期であり、入学式以来学校は閉鎖続きとなり、大学に通学するよりも早く大学のヨットクラブに入部し、琵琶湖南端の疎水口にある艇庫に繁く通っていました。
 三高時代からの艇庫は今や築100年を超えてすっかり老朽化していますが、すっかり様変わりした周辺の景色の中で今もその昔を思い起こさせてくれます。
  1917年に作られた「琵琶湖周航の歌」が歌手の加藤登紀子さんによって大ヒットしたのもちょうどその頃でした。毎年、夏には1週間程をかけてヨットで琵琶湖周航を行い、今津、長浜と夜毎湖岸にテントを張って琵琶湖周航歌を肴に酔いしれていたのが良い思い出です。ある年には周航中に台風に見舞われ、琵琶湖の大きさや怖さを身を以て体感したのも良い経験でした。
 某製薬会社の研究開発部門に勤めた私は、特に転勤もなく40有余年にわたり鎌ケ谷市に住み着いております。盆暮れに鮒寿司を送ってくれた両親も既に他界し、益々滋賀が遠のいていますが、10月の「大津祭り」に合わせて年に一度は帰省するよう心掛けています。
  やはり故郷の祭り、曳山巡行に活気あるお囃子は格別ですし、早朝のまだ人気のない三井寺を散策し、琵琶湖畔まで足を延ばして比叡、比良を眺めて、つど滋賀のすばらしさを再認識すると共に今後の発展を念じている次第です。
 子供や孫たちにとっては千葉が故郷であり、今から私が滋賀に居を移すことはないでしょうが、時には日本橋「ここ滋賀」にも足を延ばして滋賀に思いを馳せたいと思っております。

 

(平成30年5月)

 


 

 

ふるさと甲賀

 

田口 貢(甲賀市出身)

 

 我がふるさと甲賀市甲賀町は、滋賀の最南端に位置し、「忍術甲賀流」の発祥の地であります。県境の三重県に入りますと、「忍術伊賀流」の里伊賀になります。
 隣の甲南町には、当時そのままの忍者屋敷があり、当甲賀町には昭和58年「忍術村」が設置され、忍者体験が可能で、最近では外人観光客も多く見受けられるそうです。
 子供の頃はみんな貧しく、兄弟や近所の友達と、近くの空き地で三角ベースやチャンバラごっこ、ゴム飛び、メンコ、コマ回しなど、夏は近くの小川で水遊びなど、日の暮れるまで遊んだものです。
 高校は新制大津商高の二回生で、学校は大津の三井寺の近くにあり、通学には、当時、朝は蒸気機関車で甲賀駅より京都行に乗り、膳所で乗り換え、京阪電車で皇子山の近くまで通いました。
 高校では柔道部に所属し、学校に道場が無いため、毎日大津駅の近くの武道館に通い、田中清太郎先生(七段)の指導のもと、他の高校(比叡山高校など)と合同練習で汗を流しました。
 高校卒業後は、大阪の商社の就職のため18歳で滋賀を離れ、名古屋、そして東京に転勤し千葉に在住し30年を過ぎました。子供も近くに住み千葉は第二のふるさとになりつつあります。
 県人会には、東京の知人の紹介により、当初東京県人会に入会、その後千葉県人会設立により転属しました。ただ千葉県人会に今まで同窓生がいないのが残念です。   ふるさと甲賀には、家業を引き継いだ長兄が健在で、今でも年に一度は兄弟(5人)が集まり酒を酌み交わします。
 友人とは、時々中学の同窓会に参加します、当時草津線で通った甲賀市の高校の仲間とは、定期的に集まり旧交を温めております。
 帰省には、新幹線で米原で降り、東海道線で草津で乗り換え甲賀駅まで、昔とあまり変わらない風景を眺めるのが楽しみで、電車の中で乗客の滋賀弁での会話を聞くとふるさとに帰って来た気がします。

(平成29年11月)

 


 

 

近江堅田と俳句

 

荒木 洋子(大津市出身)

 

 近江堅田の浮御堂から汀づたいに北へ数百メートル、此処に私を二十歳半ばまで育ててくれた家があります。庭を隔てて琵琶湖の波が打ち寄せる細やかな砂浜に打ち上げられた藻の花が今も目に鮮やかです。対岸は守山。三上山から 昇る朝日は格別で、波に反射した陽の光が座敷の襖に柔らかい動きとなって投映されるのです。何という現象でしょうか、穏やかな目覚めを賜わったのでした。
 その頃、浪乃音酒造のご当主であった中井余花朗、冨佐女ご夫妻を中心に、堺井浮堂様その他私の両親も交えた二十人弱が参加する堅田の俳句会があり、時折の句会が持たれていました。お宿は余花朗邸であったり、湖を借景として いる生家であったり。
 当時の私は、お茶の接待の合間に俳句の披講の声を耳にし、辺りの空気がピンと張りつめるのを感じておりました。句会後は和気藹藹の句評談義など打ち解けた時間が過ぎていきます。こじんまりとしたこの様な句会にその後巡り会わ
ず残念に思っています。
 結婚後、父母兄弟との交流にと俳句を始め、のち一時中断。子育て後野田市へ転居、入会した今の俳句結社のお仲間と共に、私なりの句作りをしております。
 ともあれ琵琶湖の細波、蘆の青み、親子の鳰、鶴翼山、これらが私の原風景なのです。 心の奥底に秘めた宝物です。今、俳句を通してこの原点から徐々に月へ、惑星へ、銀河へ、そして宇宙へと発想を広げていきたいものと願っている昨今です。

  春浅き父母を預けてある山河  洋子

(平成29年11月)

 


 

 

ふるさと滋賀への思い

 

須田 康夫(大津市出身)

 

 滋賀を離れて60年、ふるさとへの思いは年齢とともに益々強くなるものです。その思いから、毎年滋賀を訪れますが、新幹線の車窓から眺めるふるさとの光景は、全く昔の面影をとどめておらず、また、かつての住家周辺の街並みは賑わいをなくしているため、一抹の寂しさを覚えていました。
 ところが、昨年、彦根市に一泊、翌日びわ湖汽船で竹生島を往復する機会があり、今までにない懐かしいふるさと体験をして参りました。
 彦根港から出航直後、湖上からの彦根城は湖面に美しい雄姿が映え、日本のほかの有数の古城にはない素晴らしい光景に強い感動を覚えました。 竹生島では、竹生島神社に向かう急傾斜の石段をやっとの思いで昇りつめ、神聖な神殿に参拝しました。
 当日は、幸い好天に恵まれ、湖面はまさに鏡のような穏やかな船旅でしたが、湖上はるかに望む比良・比叡の山並み、水面を走るヨットの帆影などは、60年前と全く同じ姿で昔にタイム・スリップしたようでした。
 さらに、船上で聞く「琵琶湖周航の歌」や「琵琶湖哀歌」は、高校生の頃瀬田川において、校内ボート競技に熱中した青春時代の記憶を蘇らせてもくれました。
 今回、図らずも、変化の著しい陸地を離れ、琵琶湖の真っただ中で周辺の変わらぬ山並みを遠く望み、また、びわ湖の情緒に触れることにより、当時のふるさとの思い出に浸ることができ、納得して、ふるさと滋賀を後にした次第です 。

(平成29年5月)

 


 

 

滋賀県での思い出

 

嶋田 建弘(旧虎姫町在住経験)

 

 滋賀県との関わりは父が旧制虎姫中学、新制虎姫高校の体育の教師として奉職しましのでた幼少期、小学1年2学期から中学3年2学期まで旧・虎姫町で過ごしました。故郷は千葉県茂原市ですが、房総千葉とは違った風光明媚で人情味に溢れた周囲の方々の温かい雰囲気を母が気に入って、私が10歳の時に父が亡くなりましたが私達兄弟姉妹を滋賀で育ててくれました。
 小学生時代は父が作ってくれたバットとボール、キャッチャミット、ファーストミットで虎姫町宮部神社の境内で三角ベースボールの野球に熱中し、夏休みなると家の前の小川で宿題もそこそこに魚取りに夢中になりました。中学時代は姉川で水浴びをした後で毛鉤と急ごしらえの竿で小鮎を沢山釣って帰って母に美味しく料理してもらいました。  私は戦時中6歳で肋膜を患い祖父が医者でしたのでペニシリンとリンゲルの治療のお陰で一命を取り留めました。虚弱体質でしたが小学4,5年で伊吹先生に縄跳び、跳び箱の指導を受けて体力も少しずつ向上し、2番目の姉が男勝りで運動能力があって県大会でも活躍しましたので、体育担当の広部先生が弟を鍛えようと無理矢理バレーボール部に所属させ9人制の中衛センターでトス役で鍛えられました。前衛では八森君、横田君かっこよく飛び跳ねてました。リレーの選手にも抜擢されて体力にも自信が付きました。図工の先生には模型グライダーの滑空大会の参加で長浜市まで引率して頂き上位入賞しました。
 また中学時代には楓先生に弁論の薫陶をうけて県内各地で弁論大会に出場して数回優勝しました。吹奏楽部が創設されて学業成績が良かったので無理矢理バリトンを担当させられました。八森君はアコーデオン担当でした。
 中学では数学で清水先生に幾何で線1本で難解な図形に回答が得られるヒントを教えられたのが鮮明でした。お陰様で数学は千葉に転校してからも好成績を修められました。祖父(母親の父)が昭和28年に茂原で千葉県内5番目の老人ホームを開設しましたので栄養士として母を呼び戻しましたので虎姫中学2年2学期の12月下旬に茂原市立鶴江中学に転校し、千葉県立長生高校に入学しました。
 昭和60年頃、家内を連れて旧・虎姫町、長浜市、姉川、小谷城国友等を見て回りました。家内は民家の前に流れている小川が川底が見える程に綺麗なのに驚きました。中学時代に弁論大会で共に活躍した中尾様(旧姓・大村様)を長浜市室町に訪ねて格式のある立派な家屋に家内も感銘しました。その後、大河ドラマで長浜が放映された時に千葉ライオンズクラブの旅行研修会で中学で同級の音羽様が嫁がれているロイヤルホテルに中尾様の紹介で宿泊し、長浜城、国友、長浜市内見物、長浜曳山祭りを見学しました。
 その後、歴史作家の武田健作様が私共の先祖の仁科盛信公の取材で茂原市の母の実家を訪ねられ、滋賀県人会を紹介され入会しました。故郷の伝統文化の一助にと「長浜曳山祭り」に昨年故郷納税をさせて頂きました。

 

(平成28年11月)

 


 

 

彦根に伝わるゲーム「カロム」

 

植野 克美(彦根市出身)

 

 10月27日、千葉滋賀県人会の催しで船橋港岸壁に静態保存されている「南極観測船しらせ」船内見学ツアーに参加しました。
 その際、ガイド役の方から「滋賀県人会の方なら、ご縁のある南極観測隊の著名メンバーをご存じでしょうか?」との質問があり、会員の中から「村山雅美さん、西堀栄三郎さん」などのお名前が挙がりました。次いで、「長い航海で乗員が無聊を慰める室内ゲームは?」と問われ、小生が直ちに「カロム」と答えたのはたまたま彦根出身だったからです。
「カロム」という室内ボードゲームは、日本中で彦根市のみで子供たちを中心に行われている遊びで滋賀県出身の方でも意外にご存じない方が多いと思います。
 8月下旬の地蔵盆などの際、小学生がお地蔵さんの近くでムシロやゴザを敷き、日がな一日スイカやまくわ瓜などを食べたり、「カロム」を行っていたのを懐かしく思い出します。
 カロムは、2人もしくは4人で行うゲームであり、キャロムやカルムなどとも呼ばれます。 

  12〜13世紀にかけてエジプトでその原型が確立されたと言われるこのゲームは、その後英国でビリヤード(スヌーカー)に変わったとされ、日本にはウィリアム・メレル・ヴォーリズがもたらしたのではないか、と言われています。
 ビリヤードのような盤上ゲームで、四角い盤の上に並んだ偏平な円筒形の木製パック(赤と緑)に向け自陣から同サイズの自身のパック(自玉)を指で弾き、自身と同色のパックに当て四隅のポケットに入れます。最後にジャック(大玉)を入れた方が勝ちです。

 ご興味のある方は日本カロム協会のHPをご覧ください。(参考資料:彦根市青年会議所内日本カロム協会HP)

(平成28年11月)

 


 

 

滋賀県の認知度

 

野田 繁樹(豊郷町出身)

 

 皆様、ご清栄のことと存じます。
 今回、千葉滋賀県人会の会報に投稿するにあたり、まず熊本地震の被害に遭われた方々にお見舞いを申し上げます。 二週間以上に亘り揺れが続き、被災地の県民の皆様方、生活に困っていらっしゃることと存じます。一日も早く通常の生活に戻ることを願っています(政府、九州、県、他府県、ボランティアなど一丸となっての協力が必要) 。
 さて、滋賀県の事で先般、県別の認知度が42位と聞き、驚きました。滋賀県の面積は琵琶湖がほとんどだと大勢の人が思っているみたいです。県の方では琵琶湖は6分の1しか占めていませんとPRしていますが、島根県、鳥取県がどこか右か左か位置さえ認知していない一部の人がおるように、世間ではその程度の認識しか無いようです。年一回の県人交流会(首都圏できばる「淡海の人大交流会」)が品川プリンスホテルで開催され、知事及び知名人も参加されますが、他府県に比べPRが少ない様に思われ、また、アンテナショップも同じでございます。
 我々も滋賀の良いところをもっとPRしたいと思っています。
 尚、神奈川県人会の会長井上氏は私の友人です。我が千葉県人会、埼玉県人会を含め、各県人会が協力して滋賀県をPRしましょう。

 

(平成28年5月)

 


 

 

近江は父祖の地

 

北川 照夫佐倉市

 

 近江は私の祖先の多くの人々が、500年に亘り生活してきた故郷である。
 北川家は蒲生氏の一族であるとされ、室町時代の後期に蒲生から分かれ、北川郷を領したと言う。以後は蒲生氏の郎党として日野や高宮に住んだらしい。言葉が推測になるのは、明治になって彦根から横浜に移住した私の祖父母が関東大震災に遭い、罹災死し、家も古文書、武具等、すべて焼失してしまったからである。
 私の父は当時10才であり、祖先の事は知らなかったが、大叔父や親戚から聞いたところによると、先祖は蒲生家の武将で在り、関が原では石田三成の下で西軍として戦ったそうである。彦根藩士となったのは延宝5年(1677)であるが、敵方であった為、知行は与えられず扶持米取で有ったという。
 住まいは小道具町1丁目(今の彦根市役所の所)にあり、井伊直弼公の埋もれ木舎とは近く、北川家八代、九代当主は能、謡の名手であったこともあり、交流が有ったという。その関係か、直弼公が藩主になると取り立てられ、屋敷が倍の広さになったとの事。
 しかし、直弼の死後、逼塞を命じられ、屋敷を追い出されたという事である。 九代目は天寧寺のすぐ下の、里根七番屋敷に住居を移し、八代目の墓を天寧寺に建てた。北川家は日野以来、浄土真宗本願寺派の信者であるが、八代目と九代目だけが曹洞宗天寧寺に葬られている。しかし、私の祖父母も罹災死したため墓を持つことが出来ず、ここに葬られている。
 このことを、知ったのもごく最近で、以後、京都へ行くときには天寧寺に寄ることにしている。新幹線では必ず琵琶湖の見える席に座り、湖を見ながら先祖を偲んでいる。近江は私の心の故郷である。

(平成28年5月)

 


 

 

温か古里とおくなる!

 

脇阪 亨(長浜市出身)

 

 千葉県に在住して53年が経ちました。千葉県は気候温暖、都心に近いが故の数々のメリットがありますが、自分が農家の長男であるという意識があってか、 定年後は滋賀へ帰ることを妻に言い含めておりました。しかし50歳の時に故あって自営業を始めてからは顧問先の関係から帰郷は不可となり、69歳で家を建 て直し墓まで用意してしまいました。
 その少し前に、息子一家が転勤のため近江八幡市に住むようになりましたが、自分の帰郷はあきらめざるを得ませんでした。これにはかなりの覚悟が必要でした。
 今は滋賀の空気に触れることを慰めとしています。毎年秋になると、新米は“近江米”(こしひかり30s)、高時川(妹川)の外畑(堤防の水流側)で育てられた“牛蒡・とろろ芋”、実家の屋敷になった“柿”を食し、 さらには正月のおせちには“鮒ずし”をいただいています。
 先日高校の同級会が長浜市で催され、懐かしい面々に会ってきましたが、駅前に“モンデクール”というショピングセンターが本年2月に開店しています。 私が小中学生の時は、学校へ行くとき母親は、行ってらっしゃいでなく“早ようもどらんせ”でした。早く無事に帰ってきなさいよということです。無事に帰ってくることを祈り、 無事を促す滋賀県の人々のやさしい心根を“モンデクール”が思い起こしてくれました。
 いつまでも滋賀の品々を送ってもらうことは難しくなります。しかし何にも勝る故郷の味は、いつまでも活動が続く“千葉 滋賀県人会”です。よろしくお願い致します。

 

(平成27年12月)

 


 

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