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井上 嘉平治(守山出身)
四方山の景色と広々とした田圃の中に、在所がある。そんな野洲郡小津村という小さな村に、私は生れました。現在は守山市になっています。春は麦とれんげが咲きほこり、空ではひばりがさえずり、あちこちで田植え前の作業に牛が活躍していました。一年もすると、近江牛肉用の予備軍として、別の子牛と交換され別の育て方をされるそうです。そんな田舎生まれの私は、在学中は勉強より農業の手伝いの時間の方が多かったように思います。
旅行の思い出も、小学校の遠足や、中学高校の卒業旅行位で、私的な旅の思い出は余りありません。その代り御輿の出る村のまつりや盆踊、そして旧中仙道守山宿の守山市(いち)、夏のホタル祭り、今は行われていないと思いますが、当時はそこそこ大きな行事でありました。高校卒業を控え、東京に就職が決まり、昭和31年春上京、数年後入社の東京生まれの女性と結婚しました。結婚後、女房が大変滋賀が気に入り、実家の冠婚葬祭や、夏休暇を利用して、湖国近江の神社仏閣、戦国武将ゆかりの地や景勝地の大方を訪れました。その素晴らしさに感動した様です。
最近は滋賀に行く機会が減り残念ですが、先年久しぶりに地元守山を散策していて感激したことがありました。私は在職中から謡曲を趣味としており、謡曲には滋賀が舞台になっているものが数多くありますが、たまたま散歩中の街道の一角に謡曲「望月(中仙道守山宿 旅篭甲屋仇討ち物語り)」に出てくる甲屋跡の石碑を発見したのです。
千葉滋賀県人会の行事等で会員の方と話していると、謡曲を趣味としている方が、5,6人いらっしゃることがわかりました。今後謡曲を嗜む会員との一層の交流を深めていきたいと思います。
(平成26年12月)
横山 照(大津市出身)
終戦の前年に、横浜の戸塚から親の郷里の滋賀県の大津に疎開し、母の両親の家にしばらく同居した。戦況が厳しさを増したために、庭に防空壕を掘り始めた。ある日、子供たちだけ先に昼ご飯を食べていると、ものすごく大きい爆発音がして、部屋の窓ガラスがビリビリと響き、皆驚いて、食卓の下に頭を突っ込んだ。後で、当時、軍需工場になっていた石山の東洋レーヨンに爆弾が落とされたことを知った。防空壕が完成する前に終戦になり、次の年に、小学校に入学し、三年生の一学期に家の引越しに伴い膳所小学校に転校した。学校の近くの線路向こうに茶臼山古墳があり、全校写生大会のとき、古墳の池のそばで、写生をしたり、授業のない時や、放課後等、皆でよく遊びに行ったことを覚えている。
8月末には、子供会の地蔵盆があり、町内の5,6か所にある石仏のお地蔵さんを一か所に集めて祭壇に並べ、町内会で花やお菓子などをお供えし、天幕を張った下で遊んで過ごしたことは、楽しい思い出である。
中学、高校は地元の学校に通い、大学を卒業して東洋レーヨンに就職した。 昭和37年頃には、会社はレーヨンの生産を止め、ナイロンやパイレンを製造していて、その後社名も東レに変わった。工場の北門を入った所に、兼平の鎧掛けの松があった。粟津の合戦で敵に追われ逃げてきた今井兼平が、休むために鎧を掛けたといわれる松で、現在の松は、何回か植え継がれたものであると聞く。
久しぶりに湖岸のホテルに泊まり、窓から下を見ると、朝日に輝く琵琶湖に小舟が浮かび、その向こうに比叡山と比良山に山々が連なる美しい光景に安らぎを覚えた。
(平成26年12月)
中田 恵美子(日野町出身)
昭和十八年生まれの私が、生まれ育った当時の日野を思い出すと、その頃は正直、日野の良さ、田舎の良さを感じぬまま、寧ろ都会に憧れていたかもしれません。子育て中は故郷を想う時間も少なかったと思います。今は日野に私の実家はありませんが、幸い主人も日野出身で、最近歳のせいでしょうか故郷を懐かしく思う事が増えました。又主人の実家の義弟が日野街並み保存の代表世話人として頑張っています。近年の日野の町興しぶりをご紹介させていただきます。
日野には八百年の歴史を持つ日野祭り“が五月三日に行われます。神輿や曳山十六基が綿向神社に出揃うこれは幼い頃から楽しみなお祭りでした。特に大窪、村井辺りでは渡御の通り道に面した家々の板塀に窓を切り、その曳山の行列を見物する”桟敷窓“と呼ばれる日野特有のものがあります。街並み保存の目的であるその”桟敷窓“を利用して春にはお雛様を飾り”日野ひな祭り紀行“として今年も沢山の観光客で賑ったようです。又秋には陶芸、日野椀、水墨画、木工等、日野出身の作家さんの作品を展示する”桟敷窓アート“として日野の街興しに奮闘しています。皆様帰省の際には是非この桟敷窓行事に合わせ、日野の町をお訪ね下さい。
(平成26年6月)
溝上 一生(東近江市(旧永源寺町)出身)
少し汗ばむ程度石段を登りきると、山門の一部をさえぎるように深紅の紅葉が色鮮やかだったことを記憶しています。
瑞石山永源寺は臨済宗永源寺派として全国百有余の末寺を統括する大本山です。また、紅葉の名所でもあり、シーズンには関西はもとより遠く関東から多くの紅葉狩りの観光客が訪れる地です。小生が18歳まで過ごした故郷、永源寺の町名由来はここにあります。
また、この地を流れる愛知(えち)川は、別名音無川とも呼ばれ水の流れもおだやかで幼い頃は鮎を追いかけ、水遊びに興じた遊び場でした。その後川上にダムができ、そのおもむきは変わったものの、今も釣り客でにぎわっている、と風聞しています。
また、鈴鹿山系のもと三重を県境とする広大な面積を有する町でもあります。名物はこんにゃくが有名で、歯ごたえ抜群、帰省の折には買い求め「雷(醤油と一味唐辛子のみの油炒めのこんにゃく)」を肴に一杯やるのも楽しみのひとつです。
こんな故郷もいまや1市6町が合併、人口11万人を超える東近江市となり大きくイメージを変えつつあります。かといって、遠く離れ何かと面倒なことはありますが本籍を移そうと思ったことは一度もありません。故郷とはそんなものかも知れません。
故郷を離れるきっかけは、中学時代の修学旅行で初めて東京の街を目にしたとき、何の根拠もありませんが「この地なら何かいいことがありそうだ」と思ったことが記憶のどこかに残っています。その後縁があり職を得ることができ夢が叶ったかは疑問ですが千葉に移り住んで35年あまりになります。佐倉の地を終の棲家に余生を楽しみたいと思っています。
(平成26年6月)
(設立時を振り返り)
新木 萬全(前事務局長)
もう10年近く前になる。当会の前会長小野忠和さんから「久しぶりに飲もうよ。俺が千葉駅まで行くから」と電話があった。「おや、珍しい。でも何か匂うぞ」と脳の奥で警戒信号が点滅する。しかし立場上、断るわけにはいかない。
何しろ向こうは小・中・高校の1年先輩であり、生家も200メートルほどしか離れていない。こんなお方の言は絶対である。
会ってみると案の定、危惧は的中。千葉に新しく滋賀県人会を作るから、事務局を引き受けろ、と来た。依頼というより、むしろ先輩の命令である。長い勤め人生活でも、 その種の仕事は縁が遠く、 全く自信はなかったが、「これも勉強」と言い聞かせてお引き受けした。
事務局の職を振り返ってみると、小さなミスは数え切れず。大きな成果も挙げられなかった。強いて誇れることと言えば、会合に出席された会員のお名前とお顔は全て頭に叩き込んだこと、会報づくりが苦にならなかったこと程度か。発足時から長きに亘り、事務局をお預かりできたのは、顧問の方々のご指導と、会長・幹事のチームワーク、会員の皆さんのご協力と寛大さに助けられたからに他ならない。心からお礼申し上げます。
(平成25年10月)
小野 忠和(前会長)
2006年全国滋賀県人会連合会(全滋連)から千葉に滋賀県人会を設立してほしいという依頼を受けました。当時、全滋連では世界大会(於、大津)の開催を翌年に控え全国のすべての県に県人会組織を設置することが進められておりました。
齢を重ねるごとに強くなった故郷への思いから、微力ながら取り組むこととし竹馬の友、新木さんに相談したのがスタートでした。その後、新木さんは事務局長として、実質的に会の中心としてご活躍いただいたことは会員各位のご高承の通りです。
設立当初からの馬場さんをはじめとする新納さん(現事務局長)中谷さんの強力な幹事陣にも支えられ早くも今年で8年目、会員数も倍増、毎回のイベントを楽しめる会として発展して参りました。偏に幹事、顧問、会員各位のご協力とご支援のおかげです。
此度、顧問として会のご指導をお願いしていた中村会員に会長のバトンをお渡しすることが出来ました。まことに喜ばしく存じると共に改めて幹事、顧問、会員各位に深く感謝申し上げる次第です。
私たちは優れた先人と母なる琵琶湖を共有しそのことを絆として有意義な集いを重ねております。このことは次世代にも脈々と引き継いでまいりたいと念願しております。
(平成25年10月)
遠藤 紀寛(米原市出身)
わが故郷は米原市(平成17年の合併までは坂田郡近江町)宇賀野で、JRで米原
から長浜に向かって最初の駅「坂田」のあるところです。
天野川下流域に広がる水田地帯ですが、JRの新快速の運行や道路網の整備により国道8 号線沿い一帯は住宅や商業施設の進出がめざましく往時ののどかな風景が一変しています。
ところで、湖国は歴史の宝庫と言われていますが、わが集落の西にも山内一豊の母法秀院の墓があります。
織田信長の岩倉城攻めによって山内但馬守盛豊が自刃し、その妻法秀院は一豊ら息子達を連れて各地を転々とし北近江宇賀野の土農・長野家に身を寄せ、そこで裁縫や行儀を教えながら暮らしていましたが、裁縫の習い子だった近在の浅井家家臣若宮喜助友興の娘千代のことを気に入り、一豊の妻に勧めやがて二人は結婚しました。
一豊は長浜城主になり再三城内に母を迎えようとしましたが移ることなく住み慣れたこの地で生涯を閉じています。
法秀院死後約200年土佐の山内家から藩士が法秀院の墓について調べに来て整備を行っており、さらに、墓碑は明治25年長浜警察署長に赴任した旧土佐藩の武士浜田源之助の尽力で整えられ、その後、損傷が激しくなり平成9年に新たに建立されたのが現在の五重塔であります。
長野家は、近年まで当時のままの大きな茅葺の門も残っていましたが老朽化が進み取り壊されています。また、駅のそばの坂田宮・岡神社は一豊が尊崇したことで知られています。
2006年のNHK大河ドラマ「功名が辻」放映時には各地から多くの人が訪れたようであります。
(平成25年4月)
池内 孝(日野町出身)
今年で高校を卒業し、生まれ育ったふるさとを離れて丁度50年になります。近年では法事の時に帰郷するだけになりましたふるさとを紹介します。
生まれ育った地日野町大字鎌掛(かいがけ)は、地形的に周辺の村々から独立していたので昭和30年3月16日に日野町と合併するまでは蒲生郡鎌掛村でした。
村の周囲は北部を除いて山林が広がり、田畑がつづく250戸千人弱の田舎
です。 村の中を通る道路は三重県に通じる御代参街道として整備、鎌掛は脇宿に指定され発展しました。道路の両脇には扇屋・大黒屋など屋号で呼ばれる家が多く建ち並んでいます。
小学生時代に遠足で出掛けた鎌掛谷の斜面には、昭和6年国の天然記念物に指定された約2万本のホンシャクナゲの純木が群落しています。
町の花や県の花にシャクナゲ・ホンシャクナゲが選ばれているのは鎌掛谷のホンシャクナゲ群落に因むものと言われております。
毎年5月3日に開催される日野祭り(県指定無形民俗文化財)頃がホンシャクナゲの見頃時期でもあり来年にはふるさとを訪ねようかと思っております。
(平成24年10月)
岩崎 清士(概ね、八日市出身)
18で、故郷滋賀を後にして、大学レジャーランド東京生活、その後千葉で
の44年、親兄弟も他県に移り、親類縁者は往き帰も薄れ、偶のクラス会に帰
るのみ。縁は年々細くなり日々思い出は薄れゆき、セピアの色に染まれ行く。
親の手に引かれ出かけた醒ヶ井養鱒場・彦根城、小学校徹夜で登った伊吹
山、中学校夏のキャンプは湖東山奥永源寺・近江八幡長命寺、野兎を追った
八日市沖野の飛行場、高校生初恋の人と歩いた百済、石山、三井の寺。
先人の、「故郷は、遠きにありて想うもの・・・」、今になり帰つて見ても、ところであんさんどちらさん、怪訝に問われて浦島太郎。
今じゃ親子3代千葉暮らし、地縁血縁蜘蛛の糸。さりながら、あなたの故郷何処ですか、問われりゃやっぱり淡海の地。三つ子の魂なんとやら今も忘れぬ「滋賀県民の歌」、どなたか覚えておいでかな。
「比良の峰ゆく白い雲、緑に映える琵琶の水、機織る町に稲刈る村に・・・」永らえて、終は淡海で眠りたい、心の何処かがそっと呟く。そんな声、女房に 聞かれりゃ大騒ぎ、なに寝ぼけたこと言ってんの。
やっぱり遠くから想っていましょう。
(平成24年10月)
中野 紳一(日野町出身)
私は昭和18年蒲生郡日野町に生まれ、18年間小学校から高校卒業までここで暮らしました。3年は絶対に帰ってこないと啖呵を切って出て来てしまい、独りになると、故郷のことが思い出され図書館へ行っては日野町や滋賀県の出てくる本を探しました。特に蒲生氏郷や日野商人の記載されている本は、見逃さないように借りてきて読みました。
自分が、これ等の立派な人たちの後輩だと思うと自信が付き、元気が出ました。他県の人に負けじと、歴史や神社仏閣、観光地などを調べ、故郷の自慢材料を出来るだけ仕込みました。同僚に(又中野のお国自慢が始まった)と呆れられました。
私はJR全線乗車を達成し、次のテーマを探して居た時、日野商人館の館長が(いま江戸時代から続くお店の名簿を整理中)と聞き、日野商人の店を訪ねる旅をすることにしました。関東地方が多いのですが、終着駅に在る町を何ヵ所か尋ねました。今でこそ電車がありますが、明治以前は歩いて此処まで来られていたのかと思うと、命がけの凄いことだと只々頭が下がりました。この様な苦労をした人達を沢山出した、わが故郷を、大変誇りに思っています。
(平成24年10月)
大谷 順子(長浜市出身)
私は昭和26年に長浜市で生まれ、小学校4年生まで長浜の祖母の元で育ちました。
今から思えば、長浜での子ども時代はまるで江戸時代の暮らしのよう。長浜駅のすぐ傍の家は茅葺き屋根で、お風呂は五右衛門風呂。水は井戸からくみ上げ、煮炊きはもちろん薪。食事はほとんど自給自足で、祖母が育てた野菜や庭で飼っている鶏の卵。時々琵琶湖のフナやコイやモロコ。両親や兄弟がいない寂しさをなぐさめてくれたのは、晴れた日に威容を見せる伊吹山や青く澄んだ琵琶湖でした。
今でこそ長浜はまちおこしのモデルケースのように言われ、多くの観光客が訪れる街になりましたが、その頃は地場産業の浜ちりめんや蚊帳の生産もきっと減少していたのでしょう。さびれた活気のない街でした。それでも毎年4月の曳山まつりの時は街が急に元気になり、お囃子のしゃぎりの音が聞こえてくると心浮き立つものがありました。曳山の上で子ども歌舞伎が上演されますが、女の子は曳山には乗せてもらえません。祖母にどうしても乗りたいとダダをこねたのを覚えています。
大人になり文学や歴史紀行、特に白洲正子の「かくれ里」などを読むようになり、長浜や滋賀県がいかに歴史と文化に彩られた土地かを知るにつけ、ふるさとの再発見をしたような思いです。湖北の子鮎や鴨も私を呼びます。
長浜に住む姉には「他に行く所ないんか?」と言われながらも、毎年長浜には一度は帰り、県内の各地に足をのばします。琵琶湖も「早く帰ってこ〜い」と私を呼んでいますから。
皆さまも近江再発見の旅にお出かけになりませんか?
(平成24年6月)
中谷 弘美(彦根市出身)
彦根(旧犬上郡河瀬村)には高校卒業の昭和40年まで住んでいましたが、その後はずっと関東住まい。私の生まれ育った家も今や空き家で、文字通り「心のふるさと」になりつつあります。
そんな私にとってふるさとと言えばやはり忘れられないのは「ふるさとの味」です。滋賀県には美味しいものがたくさんありますが、私の一番のお好みは「赤かぶらの糠漬け」。幼い頃から慣れ親しんだ味は「おふくろの味」にも通じるものですが、昔も今も私の大好物です。おふくろが元気な間は毎年自家製を送ってもらい、その後は彦根の漬物屋さんから購入し、私にとってはなくてはならない「ふるさとの味」でした。ところが3年程前に突然販売中止とのこと 、その後ネットで探しても、塩漬けが多く、一度取り寄せた糠漬けも私の好みとは全く違う味で、あの「ふるさとの味」は二度と口にすることができないのかな…と半ば諦めていました。
そんな折、今年2月の新年会の際に飲んだ勢いでずうずうしく(当時の)滋賀県東京事務所長東様に「赤かぶらの糠漬けを販売している店をご存じないですか?とお聞きしたところ「調べてみます。」とのこと。そしてなんと3日後に自宅まで連絡をいただき販売店(甲良町の「法養寺特産部会」)を紹介していただきました。もちろん喜び勇んで注文し、さっそく食してみたのですが、これが私のイメージ通りの味。「ふるさとの味」に再会でき、本当に感激でした。
東様には改めてありがとうございました。そして「赤かぶらの糠漬け」が好物だという皆様方、是非この冬には食してみてください。
(平成24年6月)