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会員投稿

 

 

和船

 

倉見 光晶(大津市出身)

 

 静かな湖面にギイギイと櫓(ろ)のきしむ音、ぐいぐいと力強く進む和船。
 琵琶湖育ちの人なら1度や2度乗られた経験があると思いますが、自分で漕ぐとなるとボートのようにはいかないこともご存じでしょう。私は小学校5年生まで滋賀郡真野浜(現在は大津市)で育ちました。戦後5年も経つと琵琶湖汽船(弁天丸・ 平安丸・日吉丸・波璃丸等)も運行され、夏の浜辺は水泳客で大いに賑わいました。
 小学校4年の夏休みから、浜辺で浮き輪(自動車の古チュープ)貸しのアルバイトを始め、朝一番に倉庫から浮き輪を浜まで運び時間貸しをし、タ方には倉庫に戻す仕事で、日当が確か45円(アイスキャンデーが5円?)でした。アルバイト先のおやじさんは貸し和船を3艘持っていて、数珠つなぎで手つき腰つきよろしく櫓を漕ぎ 船溜まりから毎朝浜へ来ます。少々波があろうとも鼻歌交じりで、櫓さばきは見事 なものです。
 私が停めてある和船で漕ぐ真似をしていると、おじさんが一緒に沖へ漕ぎ出て、コツらしきことを教えてくれました。1週間も練習すると真っ直ぐ進むようになり、思うように曲がれた時の喜びは今も忘れません。5年生の夏休みには浜から船溜まりまで(500メートルくらい?)、1人で漕いで行けるようになりました。
 それから約40年後に和船を漕ぐチャンスがあり挑戦してみると、見事みんなが 驚くほど力強<進み、自分でもびっくりしました。あれから早20年、古稀も過ぎ来年の干支辰年は回り年で、記念に和船漕ぎに挑戦しようと思っている今日この頃です

(平成23年12月)

 


 

 

愛知川界隈

 

清水 平八郎(東近江市出身)

 

 遥か遠<の空には恐ろしい形をした入道雲、その間からは夏の太陽の光が遠慮なく射る川面にはその光を受けビカビカ銀色に反射させながら鱒を始めいろいろな小魚が泳いでいる。澄み切った流れの川、湖東の地に流れる愛知川である。川幅100メートル以上もあり川底一帯は小石を敷きつめ、水深が2メートルはある。その流れは日本一大きな湖、琵琶湖につながっている。
 浅瀬には鮎の一群が黒々と川上に向かって上ってい<。子供たちは下着一枚で騒ぎ乍ら、小石を集めて澄み切った水の流れを堰き止め鮎を獲っている。やがてそれにも飽きると魚に負けじと、河童かなと見間違える程の子供たちが泳ぎ出す。
 暑い夏も涼しくなり愛知川の土堤を挟む小高い山も色とりどりの紅葉に染まり、 松の木の根の付近にはニョキニョキと立派な松茸が顔を出す。冬は川幅を狭<するほどの雪に埋まり正に白一色に様変わりする。やがて少し暖かみを肌で感じる頃になると、どこからかウグイスの鳴き声が聞こえ、木にも青い芽が吹き出し爽やかな風が流れるように吹く。
 四季折々の変化に富んだ環境の良い山の麓の一隅にある家の次男として生まれた少年が居た。父親は彼が尋常小学校に入学する前の3月にこの世を去り、それ からの戦前、戦中、戦後の生活するにも困難な時代に母親の愛情を全身に受けて育 ち、やがて学校時代に学んだ少年よ、大志を抱け≠胸に泌め最寄りの東海道線、能登川駅から汽車に揺られ東京という大都会に向かった。それが小生であります。
 あれから幾星霜、48年前に一緒になった妻には毎日、叱ったり励まされたり、医師に調剤してもらう薬で体調を保ち乍ら人生の後期をボチボチ歩んでおります

(平成23年12月)

 


 

 

東京滋賀県人会の思い出

 

佐々木 喜久雄(彦根市出身)

 

 昭和24年2月、上京してしばらくして、日夏人会が出来ましたので入会させていただきました。日夏というのは旧犬上郡日夏村、現在の彦根市日夏町です。一番の想い出が、昭和50年2月10日、品川で新年会の最後に、江州音願を踊り、皆々様と楽しく過ごしたことを、写真を見ながら懐かし<想い出しています。
 その後、東京滋賀県人会に入会、毎年夏が来ると築地の本願寺、芝の増上寺で催された盆踊りも楽しかった想い出の1ベージです。その当時、高見山関の全盛明で、大津出身の奥様と子供たちも楽しく盆踊りの輪の中におられたことも想い出のひとつです。
 年末になると、東京滋賀県人会の斡旋で故郷の懐かしい味等を購入させていただき、毎年お世話になっておりました。いつも盛況だったと妻がよく言っておりました。長らく東京滋賀県人会でお世話になりまして、ありがとうございました。
 平成18年干葉滋賀県人会設立の折に、稲枝(現彦根市)出身の妻とともに入会させていただきまし た。今後ともよろしくご指導ください。

(平成23年5月)

 


 

 

祭、桜、甲子園

 

竹本 豊子(長浜市出身)

 

 私は昭和21年長浜市に生まれ、高校まで地元の学校に通い、上京して大学に入り卒業、結婚し現在に至っています。心に浮かぶふるさとの思い出は祭、桜、甲子園です。
 私の実家は曳山「万歳楼」(瀬田町組)に所属し、兄弟3人と甥が子供歌舞伎役者として曳山の舞台に 立たせてもらいました。曳山祭は子供役者の稽古に始まり、八幡神社での奉納(子供歌舞伎の本番)前後にいくつもの行事があります。祭の間中、祭ばやしが鳴り響き、親類縁者を呼んだり、重箱にちらし寿司し、赤飯を詰めて知人に配ったり、心浮き浮きする日々でした。
 曳山祭と同じ頃に豊公園の桜が咲きます。長浜西中学校の3階から琵琶湖を望むと、春霞の中に菜の花畑の黄色が一面に広がり、青い湖岸に沿って豊公園の桜並木が連なり、その幻想的な美しさは映画のワンシーンのようで、今でもまぷたに残っています。
 また毎年夏の甲子園の時期になると、母校長浜北高校が甲子園初出場を果たしたことを思い出します。高校2年生だった私は女子マネージャーとして甲子園入りし、対戦相手が能代高校だったこと、宿舎は「竹園」だったこと、野球部長の深沢忠雄先生が「今は感じないだろうが、甲子園出場は、将来お前たちにはいい思い出になるんだよ」とおっしゃったことを覚えています。
 最後になりましたが、私の実家は菓子問屋を営み、堅ボーロ、ボーロ最中を製造していました。

(平成23年5月)

 


 

 

若き日の思い出

 

松井 誠治(大津市出身)

 

 私は昭和7年3月5日滋賀郡小松村字北小松(現在大津市北小松)に生まれ、白砂青松の雄松(現在の近江舞子)、比良山が故郷です。
 昭和19年瀬田工に入学し、1年生は勧労奉仕で出征兵土の員家の田植え、稲刈り、また予科練滋質航空隊の工事に従事しました。
 2年に進級と同時に、学徒動員で東レ滋賀工場兵器部に配属され、特殊魚雷・空中魚雷の生産に従事。工場が空爆されましたが、職長は「尚いっそう増産に努力せよ」 と訓示。
 また職場の先輩が海軍予備学生に入隊されることになり、全員で「同期の桜」を合唱して 武運長久を祈り、先輩も「後に続くことを信ずる」と言って出征していきました。
 私は陸軍幼年学校を目標にしておりましたが、戦況悪く3年生になったら予科練入隊を思った次第です。そして昭和20年8月6日、9日、広島、長崎に特殊爆弾が投下され敗戦の近さを実感、15日に終戦が決定され、非常にむなしい現実でした。
 昭和26年天皇陛下(昭和天皇)が全国を行幸され、雄松の浜で地引網をご覧になった時、地元青年団の1人として私も警護に参加致しました。

(平成22年11月)

 


 

 

思い出の動画とスナップ写真

 

上条 雄吉(大津市出身)

 

 ある程度の記憶力も訓練され、感受性も適当に高まり、好奇心の旺盛なのは、少年前期がその一時期でありましょう。大津の平野小学校を卒業し、打出中学校入学の頃(12歳前後)の記憶としての勤画は年毎に薄れつつある中で、その一部分ははっきりした力ラーのスナップ写真として、心の中に留まっているのは何故なのか、よくわかりません。
 想い出すままにそのスナッブ写真を並ぺてみると、春はコイト網とモロコ・シジミ貝・ボテジャコ 釣り・桜、夏は湖面のヨット・電飾された夜の観光船・水遊び、秋は紅葉・ススキ野・一人生えの柿・秋祭 り、冬は比良山系の雪をつけた山々・荒れる湖面等ですが、いずれもどっしり構えた比叡山を背景としています。こう並ぺてみると人物のスナッブではなく、自然の景邑などが多いのは不思議な 気がします。
 このようなことを感じるのは私のみなのか? 他の人々はどのように思い出されていらっしゃるのか?
 チャンスに恵まれればスナップ写真が再びはっきりとした動画となるかも知れません。そのチャ ンスが見つかるかなぁーと期待して県人会の集いに参加するのも楽しみのひとつです。

(平成22年11月)

 


 

 

故郷彦根について

 

石田 和市郎(彦根市出身) 

 

 私が彦根におりましたのは昭和23年4月までです。
 上京前、ある宗教団体の教祖の話によると「彦根の彦は男性を現すので、男根と読み取ることが出来る」との話を聞いたことがあります。何故そんな地名になったのかは解りませんし、こじつけであろうと思います。   
 彦根にはご存じ彦根城があり、近くには石田三成の居城であった佐和山城跡があります。
 国宝彦根城は建築にあたり他の建築物の再利用で賄われた部分があり、門は佐和山城の門を移築したものだそうです。私の子供の頃はいつでも自由に城内へ入ることが出来、時々一時を過ごしておりました。市内は道幅が狭く古い建物の2階は物置程度の高さで二重天井になっていませんでした。おそらく当時は物置としての用途で、高いところから見下ろすことは許されなかったのではないでしょうか。
 現在も彦根には私の実家や親戚があります。今まで帰省しても市内を歩くことがありませんでした。2年ほど前に親戚に不幸があり、葬儀出席前に町を散策してみたら、一部ではありますが道幅も広くなり、記憶にない道もあり、建物も立派になって浦島太郎の感じがしました。
 また近い内に思い出のある地を訪ねようと思っております。

(平成22年6月)

 


 

 

琵琶湖周航の歌

 

松室 慈孝(長浜市高月町出身)

 

 県人会の終わりにこの歌を合唱すると、瞬時に半世紀を越える学生時代に戻り懐かしさに胸が詰まります。
 昭和33年の夏、普段練習に使うボートでなく固定席の舟でこの歌そのままの琵琶湖一周をやりました。石山寺下の艇庫を出て大津、堅田を過ぎ、今津近くの村の集会所で一泊、翌日は湖の一番広い竹生島の横をかすめ姉川の河口から長浜彦根を目指しましたが、風に煽られ米原近くで葦原に避難し付近の小屋で寝ました。
 三日目は多景島を目指し岩だけの島を見て南下、その日に帰り着きましたが忘れ得ぬ琵琶湖の思い出です。
 故郷は湖北の高月町で生家は渡岸寺十一面観音像がある向源寺で兄が住職を勤めています。目に浮かぶ風景は東の伊吹山と整然と区画された田圃、畦に植わったハンノキの列です。記憶に沁み込んだこの畦道や小川もハンノキも今では圃場整備でまるで昔と違った景色になりましたが夢に出て来る家や田圃は幼い頃のままです。
この地で同じ中学高校を過ごした人が現会長の小野さんで一年先輩、事務局長の新木さんは同級生です。不思議なご縁でこの千葉で懐かしい人に会えるのも県人会のお陰と感謝しております。

(平成22年6月)

 


 

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